維新が税優遇65件の即時廃止案 中小賃上げ税制や結婚子育て贈与税https://t.co/ywnWuPu7OT
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) August 22, 2026
FT (Forex Trader) | リピートFX/CFDと投信積立で資産形成を目指す @forextraderh · 22時間 公立高校を衰退させて私立にお金をばらまく「高校授業料の無償化」を廃止した方がいいのでは。
このままだと公立高校は ぶっこわれる。
公立の高校、大学の無償化を目指すべき。
資本主義の“総本山”アメリカで「なぜ社会主義?」トランプ氏の“目の敵”ニューヨーク市長が掲げる「民主社会主義」市民の「生活保障」強調 背景に「格差の拡大」【サンデーモーニング・風をよむ】 | TBS NEWS DIG (1ページ) https://t.co/wlB5kaDnJy
— 河添 誠 KAWAZOE Makoto (@kawazoemakoto) August 23, 2026
自分
マムダニさんやバーニー・サンダースさんの民主社会主義でも公立校の無償化は言っても、私立校の無償化は言ってないでしょ?はい、その理解でおおむね正しいです。
バーニー・サンダース氏の場合
彼の「College for All(すべての人に大学を)」政策の中心は、公立の大学・コミュニティカレッジ・職業訓練校・見習い制度を授業料無料にすることです。
私立大学については、一部の歴史的に黒人大学(HBCU)やマイノリティ向け機関(MSI)で低所得層向けの支援を拡大する程度で、一般的な私立校の無償化は主張していません。K-12(小中高)についても、すでにアメリカでは公立が無償なので、私立校の無償化は政策の対象外です。ゾーラン・マムダニ氏の場合
ニューヨーク市長として彼が強く推しているのは、
- 0〜5歳前後のユニバーサル・チャイルドケア(無償保育)
- CUNY(ニューヨーク市立大学、公立)の授業料・費用を、市の公立高校卒業生向けに無料にする「CUNY Promise」
といった公的教育・保育の拡充です。公立K-12教育の質向上やクラスサイズ縮小、教員支援などは語っていますが、私立学校の授業料を無償化するという主張は見当たりません。むしろ特別支援教育では、公的システムを強化して私立に頼らなくても済むようにする方向を示しています。
民主社会主義の立場では、「教育は公共財であり、税金で支える公的システムを強化すべき」という考えが基本になるため、**私立校の無償化(=私立への公的資金投入)**は優先されにくい、というのが一般的な傾向です。
花見の時期に桜の木の下でベトナム人が宴会するのに反対する人はいないだろうが、この場合、TPOがな・・・近隣住民が許容するかどうか・・だな・・・とにかく騒音とゴミは出さないほうがいいな。個人的に好きではない習慣だが、桜の木の下にビニルシート敷いて酒飲む日本人の習慣と親和的だね。
— Spica (@CasseCool) August 23, 2026
RT @koba31okm 俺(日本人)が映っている。 https://t.co/0RWSKkOUqo
これはまったく逆。賀茂真淵が漢詩に見出した「からごころ」は、科挙に落ちた知識人が政治を論じる「ますらをぶり」だった。本居宣長がそれに対置した「やまとごころ」は漢詩とはまったく別の古今集の世界。 https://t.co/NlMjXNalag
— 池田信夫 (@ikedanob) August 22, 2026
本居宣長(1730–1801)の言う「やまとごころ」(大和心)とは、簡単に言えば日本人本来の、自然で素直な心のことです。
対になる概念との対比
宣長はこれを「からごころ」(漢意・漢心)と対置しました。
- からごころ:中国の儒教・漢籍の影響を受けた心。理屈っぽく、善悪是非を基準に判断し、虚飾や作為(はからい)が多く、中華思想に染まった態度を指します。宣長はこれを「さかしら」(小賢しい知)として批判しました。
- やまとごころ:仏教や儒学が入ってくる以前からの、日本人の古来の精神。はかりごとのない「ありのままの素直な心」(真心=まごころ)です。
具体的な内容
宣長にとってやまとごころの中心は「もののあはれを知る心」にあります。物事に触れたときに素直に喜び、悲しみ、感じる感受性・情感のことです。これを『源氏物語』や和歌(特に古今集などの世界)に見出し、古代の『古事記』を通じて神代からの日本人の心のありようを探求しました。
宣長自身が詠んだ有名な歌があります:
敷島の やまとごころを 人とはば
朝日ににほふ 山桜花「やまとごころとはどんなものかと聞かれたら、朝日に映える山桜の花のように答える」という意味で、清らかで自然な美しさ、儚さ、ありのままの姿を象徴しています。
要するに、論理や倫理で物事を裁くのではなく、感情をそのまま肯定し、自然に生きる心——それが宣長の「やまとごころ」です。後に「大和魂」として政治的に使われることもありましたが、宣長自身の意図は文学・感情の領域に根ざした純粋な日本古来の精神性にありました。
まとめ要するに、東さんの発言は「日本文化の傾向」としての洞察、池田さんの指摘は「国学思想史の具体」としての訂正です。両者はレベルが少し違うため、どちらか一方が全面的に正しい・間違っているというより、補完し合う関係に近いと言えます。厳密な歴史的事実としては池田さんの枠組みの方が国学の原典的理解に近いです。
- 東さんの側:日本の中国文学受容における選択性(政治より抒情)という大きな文化的傾向を指摘しており、誤りとは言えません。ただし、「やまとごころ」をそのフィルターと直接結びつけるのは解釈の飛躍があります。
- 池田さんの側:国学者たちの実際の議論の枠組み(真淵のますらをぶり/からくにぶり、宣長のやまとごころ vs からごころ、古今集の位置づけ)に沿った補正として正確です。「まったく逆」と強く言うほど単純な逆転ではないものの、東さんの発言をそのまま受け入れると国学の文脈が歪む点を指摘しています。
どっちも必要な「こころ」だろうな。
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