「手遅れ」 ・・・すでにかなり遅れているが・・・
Thirst for Knowledge reposted
いずれ大虐殺が終わるにせよ、世界の視線が注がれるなか、この虐殺が止むまでなぜこれほど時間がかったのか、歴史家はどう記述するのであろうか?A group of kids displayed a banner that said, "Stop killing children. Stop killing civilians" ahead of the 2025 UEFA Super Cup between PSG and Tottenham pic.twitter.com/aeqWfxNanM
— ESPN FC (@ESPNFC) August 13, 2025
8月15日が命日の松林宗恵監督は元海軍で、敗戦から十年目に『人間魚雷回天』を作っている。生存者の手記を基に無意味な特攻に向かう兵士たちの苦悩を描く。明日、特攻に行く岡田英次が、彼ら特攻隊の威を借りて威張り散らす奴らに「俺たちを利用するな!」と叫ぶ。今もそういう奴らが絶えない。 pic.twitter.com/6RmDhUuSbD
— 町山智浩 (@TomoMachi) August 15, 2025
狂気の作戦だな。
火垂るの墓に出てくる節子は4歳…沖縄戦を象徴するこの映像 7歳の「震える少女」…本人が語る平和への思い「初めて見るから怖いよ、青い目は…」
— ちょけまる。🟣 (@ahsnoopyninari6) August 15, 2025
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泥まみれで震えていた7歳…米軍記録映像に映る少女は今87歳に 「どこで殺されるかと怖かった」【戦後80年 #あなたの623】
この方だな。そして
この白旗の少女も7歳だった。
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富子さん(当時7歳)の父は日本軍の食料調達に出たきり戻らず、富子さんたちは兄姉4人で砲弾や機銃の雨の中、南部へ避難しました。「私と一緒に寝ていたニイニが、私は無傷なのに、頭の後ろのほうがぽっかり開き、血がいっぱい流れているんですよ。と振り返ります。数日かけてたどり着いたコメスの海岸で、流れ弾が兄の頭を貫通しました。兄を砂浜に埋葬し、再び避難を始めますが、海岸を追われた人々の波の中で姉たちとはぐれ、戦場でひとりぼっちに「私、一人ぼっちだけどな、逃げていたんですよ。もうあれから一人ぼっちですから、壕から壕へとね」この時、富子さんは7歳。住民が自ら命を絶ったり、重症を負って動けなくなった仲間に日本兵がとどめを刺したりする光景を目にしました。時には遺体の荷物からわずかな食料を得て、たった一人戦場をさまよいました。「兵隊さんも死んでいるから食べ物はいらないでしょう。自分、食べ物ないから兵隊さんくださいね、って手合わせて」生きる気力を失いかけていた富子さんは、味噌汁の匂いに導かれて入った壕で、両手両足のない老人と盲目の老婆に出会いました。おじいさんおばあさんは二人は富子さんに食事を与えながら命の大切さを説いてくれたのです。3人のいる壕の中にも聞こえた投降を呼びかける声。
「富子の命は、お父さん、お母さんとこでつながっているんだよ」と、老婆は語りかけます。そして、「だから自分勝手にね、こっちはいずれもう放射砲でやられるから、早く逃げなさい。富子はまだ若いから」と、壕を出るよう促しました。富子さんが手にしているのは、おばあさんが噛みちぎったふんどしをくくりつけた木の枝。この写真が撮影されたのは、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる1945年6月23日から2日後の6月25日のことでした。1977年、沖縄市の写真集で偶然、白旗を掲げた少女を発見し、7歳の自分と再会を果たします。しかし、それから10年もの間、自分が白旗の少女であることを明かしませんでした。「言わないでずっと黙っていたのは、あのおじいちゃん、おばあちゃんを一緒に逃げないで置いてきぼりにしたから、自分はとても何か卑怯な感じがして」時には、事実とは異なる伝え方をされたこともありました。「写真から見たら、私が先頭になって私を盾にして兵隊さんが出てきているって書かれたんですよ、新聞に」。真実を伝えられるのは自分しかいない。そう決意した富子さんは、1987年に「白旗の少女は私です」と名乗り出ました。富子さん(87歳)は今、昔のことははっきりと蘇ると語ります。80年前の沖縄戦では、甚大な犠牲が生まれただけでなく、牛島満司令官らが自決し、組織的戦闘に終止符が打たれたとされています。6月25日付近を撮影したとされる映像に映っていたのが、白旗を掲げた当時7歳の富子さんです。たった一人で戦場をさまよい、たどり着いたガマで出会った老人と老婆。二人は噛みちぎったふんどしを木の枝にくくりつけ、富子さんに命を大切にしなさいと壕を出るよう促しました。「お父さんが泣きべそかいて死ぬなよ」と言っていた。ちゃんと笑っていないですよ。こわごわ手を振っているわけですよ。」
壕を出た先に待っていたのはアメリカ兵でした。銃を向けているように見えたため、富子さんは死を覚悟して歩き続けましたが、彼らが構えていたのはカメラでした。富子さんにとって、この写真は辛かった記憶を思い出すものでもあり、命の尊さや命のつながりを教えてくれた、おじいさん、おばあさんの温かい記憶を思い出すものでもあります。「おじいちゃん、おばあちゃんはもう生きる望みもないというのに、こんなお話をしてくださった。写真があったら語れるんだと思って」
手足のないおじいさん、盲目のおばあさんは神様だな。少なくとも神様が宿っているんだな。
歴史を直視しないのは悪いが、日本の場合は一部勢力、中国の場合は国全体。【天安門大虐殺】も認められない中国が、何を言っているのか。片腹痛い。 https://t.co/DFWuYvGT70
— buvery (@buvery2) August 15, 2025
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